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各流派1 赤坂鐔

寛永年間、京で鐔商を営んでいた雁金屋彦兵衛が鐔工の忠正父子を引き連れ、江戸赤坂に移り住み、その地で鐔を作り売り出したのが始まり。(雁金屋彦兵衛と初代忠正同人説もある)地名をとって「赤坂鐔」と呼び慕われた。

鐔の意匠は彦兵衛が考案し、忠正父子が製作を担当した。という説がある。

そうであるならば、今のブランド品同じく、デザイナーと職人の分業によって、「赤坂鐔」というブランドが生み出され、工房を構えていたことが伺え、興味深い。

赤坂鐔は、初代忠正から九代まで時代の好みに合わせて変貌し、分派を加え、廃刀令まで繁栄をみる。

初代:忠正(寛永年中より明暦三年没)

二代:忠正(明暦より後継ぎ、延宝五年没)

三代:忠虎(延宝より後継ぎ、宝永四年没)

四代:忠宗(宝永より後継ぎ、延享三年没)

五代:〜九代:忠時(延亨より嘉永頃まで続く)

(五代忠時は、江戸を出、京に移り住んで新しい作風を求めた。)

他に弟子筋に、

忠春:忠正門人

忠重:初代忠時門人。(宝暦〜天明頃が最盛期)

忠政:初代忠時門人。

忠一:二代忠時門人。

忠好:忠重子。

忠綱:忠重二男。

忠則:三代忠時門人とする説がある。

竹中政凞:享保七年生。研師。祖先は尾張出身で、信長に従って代々刀の研ぎをしていた。「寿竹」とも銘切り、赤坂派に鐔を学び、試作した。

その他、忠辰・忠行・忠光・忠利・正光・忠景・忠道・忠次などがいる。これらの鐔工は、赤坂派の鐔を造っているものばかりでなく、武州鐔一般の出来のものもあり、また同地で他派の別人と混じっている懸念もあるが、定かでないため、多くは、無銘の鐔同様、その個々の鐔の作風によって、赤坂鐔かどうかを検討するに委ねられている。

「古赤坂」と極められるのは、上三代の作で、それ以降の赤坂鐔とは異なる作風のため、「古赤坂」と区別されている。

「古赤坂」の鐔の作風が似ているのは、同じ作業所で共に鐔を作っていたからだと言われている。

「古赤坂」観賞のポイント

1)良く鍛えられた良質の鐔を上下に、間を別の鉄を使用して三枚合わせにしている。 これは、刀の鍛える時と同じように、皮鉄と真鉄をブレンドし、より強固な鐔を作ったものと思われる。

古赤坂、赤坂鐔の大きなポイントの一つは、切羽台に近づく程、厚みが増す、碁石形の「中高」といわれる形状である。

2)耳には三枚合わせのため、線状の鉄骨が現れる。

3)初・ニ代は笄櫃孔が小さいものが多く、三代より通常の形となる。

4)初代は切羽台の上部が尖るものが多く、次第に小判型になってゆく。これは、時代の拵の形状に順じたものと思われる。

5)図柄は雁金屋彦兵衛の考案が多く、尾張の武骨な図柄を参考にしたものが多い。

6)在銘のものはない。

「赤坂鐔」観賞のポイント

1)四代〜九代の作及び門人の赤坂鐔をいい、在銘のものもある。

2)三枚合わせであるとされるが、技術が向上したのか、合わせ目が判然としなくなる。

3)地鉄は鍛えを残すも磨き地となり、図柄も「京」「肥後」など、当時人気の高い鐔の作域を大いに参考にするようになる。

この時代、地域間の影響を強く受け合ったため、どちらが先に考案したのかは研究を要する。徳川幕府が定めた、「参勤交代」制によって、ご当地の技術や資材、流行(ファッション)等の文化交流が、これまでの時代以上に安易なものとなり、盛んになったためではないかと思われる。五代目以降は、各地域の図柄が従来の赤坂鐔と融合して、また、時代の流行に応じたため、上三代のような独自の作風が薄れていった。(他の流派にも同じことが言える)

4)「唇」と言われる、切羽台の上下に規格化された埋め金をいれる手法を生み出した。

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