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当店は通販専門店により、実店舗へのご来店を御希望のお客様は、事前に上記フリーダイアルにてご連絡ください。

 FAXでのご注文も承っております。      FAX:086-484-0264

鐔の手入れ

*刀装具の取り扱いも以下に同様です。

<鐔の特性について>

☆鐔の素材は大きく分けて2つ。                    

1.鉄

1.その他の金属(真鍮・赤銅・四分一銀等)

☆鐔の天敵

1.湿気 (水分)

1.塩

1.油 (永年付着した劣化した油による酸化)

これらは鐔を錆付かせ、朽ちさせてしまいます。

☆鉄鐔の錆

鐔にもともとついている錆には、それ以上錆をつけないように保護をする被膜の役割がありますが、

人間のお肌同様デリケートで、傷みやすいので、取り扱いには細心の注意を払ってください。

(鉄以外の色金も同様です)

この錆は、鉄鐔観賞の重要なポイントになります。

<保管方法>

1.桐箱に入れて、中で動かぬようクッションを入れて保管。

*桐の箱は、害虫・湿気から守り、なおかつ通気性がありお勧めです。

×高温多湿の場所や屋外での保管はNG!

<鐔観賞時の作法>

鐔の観賞には難しい作法はございませんが、以下の事に注意のほど、ご鑑賞ください。

1.鐔は素手で触らずに、清潔な袱紗や布の上から観賞してください。

清潔な白い手袋を着用して観賞するのを推奨いたします。

*鉄鐔に関しては、清潔にした手で触っても結構ですが、なるべく上記の方法で観賞してください。

*色金(その他の金属)の場合、素手で触ると、手に付いている微細な油・塩分・水分等で

素材の色が変色し、もとに戻らなくなりますので、絶対におやめください。

<鐔の手入れ法>

数か月に一度、コレクションを取り出して柔らかな生地目の細かな布や刷毛等で、優しく空拭きしてください。

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鐔の取り扱いは、特別難しい方法や作法はありません。

誰でも手軽に楽しめる美術工芸品ですが、何世代の人の手を経て、お手元に届いた物ですので、

その取り扱いには、正しい愛情を持って接してくださるようお願いいたします。

*小さな物ですので、落としたりしないよう気をつけてください。

*重さのある物ですので、不注意から事故を起こさぬようご注意願います。

*乱暴に扱わないでください。

*小さなお子様等がおられるご家庭は、お子様の手の届かない場所での保管をお願いします。

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それでは、鐔がある貴方だけの上質なライフスタイルを、お楽しみください。

鑑定書について

当店商品タイトルに記載されている鑑定書についてご説明いたします。

小道具の鑑定機関はいくつかありますが、当店で主に取り扱っている鑑定書は、

財団法人日本美術刀剣保存協会(以下:協会)が発行している鑑定書になります。

日本美術刀剣保存協会の審査基準は現在4段階あり、

1.特別重要刀剣類指定

2.重要刀剣類指定

3.特別保存刀剣類指定

4.保存刀剣類指定

となります。

その他に、

1.特別貴重刀剣類認定

2.貴重刀剣類認定

というのもあり、これは、上記4段階が成立する以前に用いられた、協会が認定していた旧鑑定書です。

*市場に出回っている鑑定書の中には、悪意の下、偽造されたものも存在するので注意が必要ですが、

当店で取り扱っている商品に付いている鑑定書は、正規で発行されたものですので、ご安心ください。

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当店で取り扱っている主な鑑定書は以下の通りです。

<保存刀装具鑑定書>

<特別保存刀装具鑑定書>

<特別貴重鑑定書>

*鑑定書とそれを納める封筒は、前の持ち主の管理状態によって、汚れや折れ、タイトルや持ち主の名前等

の記載が加筆されているもの(主に封筒)がありますが、

当店では再発行等のご要望にはお答えできかねますのでご容赦ください。

なお、鑑定書の画像については、記載内容が重複するという点から、商品画像をより多く充実させることを

第一と考えておりますので、割愛させていただいております。

*当店以外で入手された、お手持ちの鑑定書の真偽がご不安な場合、協会の方へお問い合わせください。

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鑑定書とは、持ち主が任意で審査を受けて発行されたもので、あくまでも鑑定書のあるなしが、

作品の価値を決めるものではありません。

鑑定書についての考え方は様々ですが、当店では、協会が「後世に伝える価値がある」と認定したものであり、

そのランクを証明したものだと考えております。

歴史的、美術的価値のあるなしに関わらず、貴方だけの宝物は貴方だけのもの・・・

どうぞ、「鐔の都」で貴方だけの宝物を見つけてください!

鐔の部分名称#1

中心孔:刀の中心を通す穴。 

切羽台:刀と鐔の間に挟む切羽が重なる部分

* 作者の名前(銘という)や製作年代(年期という)はこの部分に刻まれる。

:鐔のふちの部分。

笄櫃孔:笄を通す穴。 

小柄孔:小柄を通す穴。

責鏨:刀と鐔との不具合を調整するためにつけた鏨。

陽透:形そのものを残して透かした技法。

影地透:形の輪郭線だけを残して透かした技法。

地透:図柄を残すために鐔の地を透かす技法。

鐔の歴史

鐔の歴史的概要

鐔が研究対象として分類整理され、クローズアップされるようになったのは、明治期に入ってからのことで、それ以前は単に、あくまで「刀の付属品」として、鑑賞及び一道具として親しまれる程度のものでしかありませんでした。

室町期以前

鐔は、刀匠・甲冑師といった職人が、副業として製作しており、それぞれの素材から出た余剰の鉄を使用して作られました。

なんのへんてつもない鉄の板から始まって、「影透かし」と言われる文様をくり抜いて透かしたデザインが加えられ、その小透かしは、戦乱の時代の武士の慰めになったことでしょう。

それぞれの職人の名称を取って、「刀匠鐔」、「甲冑師鐔」などと分類され、その技法は幕末まで続きます。

室町以降~桃山時代

足利政権の時代になると、足利将軍によって、それぞれの技芸に秀でた人物達を「同朋衆」として集め、当時信仰の厚かった「時宗」の題目である「阿弥陀仏」より「阿弥」の文字を取って称号とし、彼らの技巧を庇護し技芸の奨励が図られました。

「正阿弥」と称される鐔工は、前時代の鐔の技法に新しい試みを加え、様々なデザインを生み出します。

従来の影透かしに加え、文様の形を残し地の部分を透かした、「透鐔」もこの時代に編み出されました。(一説に因ると、足利将軍の考案といわれています。)

「正阿弥」の鐔工達の技巧を学ぼうと、全国より多くの鐔工達が集まり、その技巧を習得し、また全国へと散ってゆき、それぞれ地方色溢れる独自の鐔が生まれ、発展してゆくのです。

それらはそれぞれの地方の名称をとって、「京透鐔」「尾張鐔」「赤坂鐔」などとに分類され、今日まで親しまれています。

「正阿弥」より生まれた多岐にわたる豊かな技法は、その後の鐔の歴史のいわば母体となると考えて間違いないでしょう。

桃山以降江戸期

戦乱の世も落ち着きを見せ始め、鐔は従来の実用性に加え、嗜好性を強く帯びてくるようになります。

大名のお抱え鐔工が、大名の好みに合わせて作られることにより、「肥後鐔」のように新たに流派が生み出されたり、地方色を帯びた鐔がそれぞれの交流を深め、進化を遂げるようになってゆきます。

また、鐔の製作も分業化が進み、琳派などの絵師達の卓越したデザインが鐔に取り入れられたり、刀に付随する鐔や外装も、武士や、帯刀を許された、当時、新たな富裕層として台頭してきた商人達の一種のステイタスとして捉えられ、斬新かつ洒落に富んだ絢爛豪華なものに変貌してゆくのです。

鐔工達も、大名や幕府に抱えられる金工師とともに、それとは異なるいわゆる独立したインデペンデントな町金工達が発生し、自由な発想のもとに発展し、受け入れられて来たのもこの時代です。

幕末~明治期

長い鎖国時代が終わりを告げ、日本に新しい風が吹き抜けたこの時代、前時代の技術を引き継いで、加納夏雄などの素晴らしい金工師達によって、鐔は大きく完成へと向かいます。

戦後~現在

廃刀令により、刀の製作が中断されてから、不運にも鐔工達も製作の場を失うこととなりますが、その技術は耐えることなく継承され、現在、様々な作家たちが、先代たちの残した素晴らしい技術を後世に伝えるべく、切磋琢磨を続け、日本が誇る工芸品として製作し、世に送り出しています。

 

鐔・刀装具の材料

鐔・刀装具の主な素材

鐔のなかで、一番好まれた素材。

強靭な刀のやいばから身を守るには同じく鍛錬された強靭な玉鋼(たまはがね)を使用するのが最良だったのであろう。

赤銅(しゃくどう)

烏銅・烏金

赤銅は、銅と金の合金。

金の含有量が多いほど、良質の赤銅が作られる。

赤銅独特の、深い赤紫がかった黒は、露に濡れたカラスの羽根のようでもあり、そのため「烏銅」や「烏金」とも呼ばれた。

四分一(しぶいち)

朧銀(ろうぎん・おぼろぎん)

赤銅とともに多様された素材で、銅と銀との合金。

全体の四分の一の銀を含むことからそのように呼ばれた。

朧月夜を見るような味わいのある色調から、古人はこれを

「朧銀」とも書く。

四分一は溶解度が低いため、硬くてもろい性質から細工が難しく、また、その取り扱いも、すぐに変色してしまい、神経を使う。

真鍮(しんちゅう)

黄銅(おうどう)

銅と亜鉛の合金

日本での亜鉛の産出が難しかったため、中国からの輸入に頼っていた。

日本で精錬されるようになったのは江戸期に入ってから。

室町期に伝来した合金で、当初は磨くだけで黄金色になり、鉄のように錆びつくことが少なかったため、大いに称賛された。

山銅(やまがね)

山から出たそのままの粗銅のことで、山金とも書く

江戸期に入ってから、純度の高い銅を精錬出来たが、それ以前は不純物の混じるそのままの銅を使用するしかなかった。

そのため、色味や質感が均一でなく、さまざまな表情を見せるものとなる。

素銅(すあか)

精錬されて純化した銅を山銅と区別して素銅と呼ぶ

混じりけのない銅はあかがね色で、色上げや精錬過程で銅の色が濃厚な赤になったりする。

古い時代にはなく、江戸期に造られたものである。

鐔や刀装具にきらびやかな演出をするのが金。

無垢(金をそのまま使用)したのは、目貫がほとんどで、「金錆び」と呼んで、時代から来る金の変化を楽しんだ。

金には「赤金」と「青金」があり、前者は銅を含有し、後者は銀を含有する。

金とともに刀装具を演出。

銀は金よりやや硬く、銅より若干柔らかく、伸性と属性に優れるため、よく細工の材料に使用される。

鐔や刀装具に携わる職人たちの呼び名は様々あるが、

「白銀師」とも呼ばれることから、銀がいかに多様されていたのかがわかる。

各流派1 赤坂鐔

寛永年間、京で鐔商を営んでいた雁金屋彦兵衛が鐔工の忠正父子を引き連れ、江戸赤坂に移り住み、その地で鐔を作り売り出したのが始まり。(雁金屋彦兵衛と初代忠正同人説もある)地名をとって「赤坂鐔」と呼び慕われた。

鐔の意匠は彦兵衛が考案し、忠正父子が製作を担当した。という説がある。

そうであるならば、今のブランド品同じく、デザイナーと職人の分業によって、「赤坂鐔」というブランドが生み出され、工房を構えていたことが伺え、興味深い。

赤坂鐔は、初代忠正から九代まで時代の好みに合わせて変貌し、分派を加え、廃刀令まで繁栄をみる。

初代:忠正(寛永年中より明暦三年没)

二代:忠正(明暦より後継ぎ、延宝五年没)

三代:忠虎(延宝より後継ぎ、宝永四年没)

四代:忠宗(宝永より後継ぎ、延享三年没)

五代:~九代:忠時(延亨より嘉永頃まで続く)

(五代忠時は、江戸を出、京に移り住んで新しい作風を求めた。)

他に弟子筋に、

忠春:忠正門人

忠重:初代忠時門人。(宝暦~天明頃が最盛期)

忠政:初代忠時門人。

忠一:二代忠時門人。

忠好:忠重子。

忠綱:忠重二男。

忠則:三代忠時門人とする説がある。

竹中政凞:享保七年生。研師。祖先は尾張出身で、信長に従って代々刀の研ぎをしていた。「寿竹」とも銘切り、赤坂派に鐔を学び、試作した。

その他、忠辰・忠行・忠光・忠利・正光・忠景・忠道・忠次などがいる。これらの鐔工は、赤坂派の鐔を造っているものばかりでなく、武州鐔一般の出来のものもあり、また同地で他派の別人と混じっている懸念もあるが、定かでないため、多くは、無銘の鐔同様、その個々の鐔の作風によって、赤坂鐔かどうかを検討するに委ねられている。

「古赤坂」と極められるのは、上三代の作で、それ以降の赤坂鐔とは異なる作風のため、「古赤坂」と区別されている。

「古赤坂」の鐔の作風が似ているのは、同じ作業所で共に鐔を作っていたからだと言われている。

「古赤坂」観賞のポイント

1)良く鍛えられた良質の鐔を上下に、間を別の鉄を使用して三枚合わせにしている。 これは、刀の鍛える時と同じように、皮鉄と真鉄をブレンドし、より強固な鐔を作ったものと思われる。

古赤坂、赤坂鐔の大きなポイントの一つは、切羽台に近づく程、厚みが増す、碁石形の「中高」といわれる形状である。

2)耳には三枚合わせのため、線状の鉄骨が現れる。

3)初・ニ代は笄櫃孔が小さいものが多く、三代より通常の形となる。

4)初代は切羽台の上部が尖るものが多く、次第に小判型になってゆく。これは、時代の拵の形状に順じたものと思われる。

5)図柄は雁金屋彦兵衛の考案が多く、尾張の武骨な図柄を参考にしたものが多い。

6)在銘のものはない。

「赤坂鐔」観賞のポイント

1)四代~九代の作及び門人の赤坂鐔をいい、在銘のものもある。

2)三枚合わせであるとされるが、技術が向上したのか、合わせ目が判然としなくなる。

3)地鉄は鍛えを残すも磨き地となり、図柄も「京」「肥後」など、当時人気の高い鐔の作域を大いに参考にするようになる。

この時代、地域間の影響を強く受け合ったため、どちらが先に考案したのかは研究を要する。徳川幕府が定めた、「参勤交代」制によって、ご当地の技術や資材、流行(ファッション)等の文化交流が、これまでの時代以上に安易なものとなり、盛んになったためではないかと思われる。五代目以降は、各地域の図柄が従来の赤坂鐔と融合して、また、時代の流行に応じたため、上三代のような独自の作風が薄れていった。(他の流派にも同じことが言える)

4)「唇」と言われる、切羽台の上下に規格化された埋め金をいれる手法を生み出した。

各流派2 刀匠鐔

平安時代の後期頃より廃刀令の頃まで作り続けられる。刀鍛冶によって造られた鐔といわれる。

刀の作った余鉄を使った簡素なもので、円形の無文のものであったのが、小さな紋様を打ち抜くようになり、これが透鐔の誕生であると言われている。

「刀匠鐔」観賞のポイント

鐔の表面は槌目跡を残しそれを景色とし、刀の中心をみるような深い味わいを残している。

1)在銘のものはほとんどない。

稀に刀匠の銘を切っているものもあるが、江戸時代に入ってからのものが多い。

それは、鐔は刀に付随する拵の一部として考えられており、単独の作品としての認識がなかったためであろう。

2)江戸時代以前のものを「古刀匠」それ以降を「刀匠」と呼ばれているようである。在銘のものがないため、鐔の作風・地鉄の状態などで判別がなされる。

3)「古刀匠鐔」は、凸凹のない板鐔で、槌目地。「刀匠鐔」は、やや中高の碁石形となり、磨き地が多い。

4)耳は、甲冑師鐔のような細工はない。

5)丸形が多く、木瓜形のものもある。

各流派3 甲冑師鐔

刀匠鐔より少し遅れて、鎌倉時代の後期に鎧を作る職人たちによって作られた鐔。

甲冑師鐔は南北朝期に最も多く作られたが、その後の戦闘方式の変化と地透鐔の台頭によって、小型化し、その後衰退してゆく。

江戸時代には、甲冑師の流れを汲む明珍派・早乙女派・春田派が古来の作風を留めながら独自の作風を生み出し継承した。

「甲冑師鐔」観賞のポイント

1)「古甲冑師」(室町時代まで)「甲冑師」(~江戸時代)がある。

2)作域は刀匠鐔に似るが、耳の状態が打返耳・土手耳・桶底耳といって、甲冑師鐔独自のものとなる。おそらく、強度を補強するためであったのだろう。

3)「古甲冑師」は平面的な板鐔で、槌目地のものが多く、時代が下がるにつれ厚みを増し、磨き地となる。

4)在銘のものはないものがほとんど。

各流派4 応仁鐔

室町時代の製作で、名称のように「応仁」期に誕生した鐔とされる。甲冑師鐔と鎌倉鐔の中間期のものだと「秋山久作」氏は述べている。

当時真鍮は珍重されたものであったため、上流武士をはじめとした有力者に広く愛用されたものであった。

派生当時、板鐔に透しを施す鐔工と、板鐔に他の金属を象嵌を施す鐔工が同時期にいたとされるため、作域は初期の甲冑師や刀匠鐔に真鍮で象嵌を簡素に施したものである。

応仁鐔の後継者的鐔が、「平安城象嵌鐔」「与四郎鐔」という定義である。

応仁鐔観賞のポイント

1)鉄の板鐔に真鍮で点と線に象嵌し、これに図案的で簡易な透かしが加えられたものと、浅肉に据紋を施したものと二手ある。

2)図柄が複雑化したもの、絵画的なもの、土手耳などの細工がなされたものは、後代の平安城象嵌などに部類される。

3)在銘はない。

各流派について 柳川派

柳川家は直政を創業主とし、次いで直光・直春の活躍によって著名となる。

直政は横谷宗珉の直門であったため、作風も師の工法をお家芸として伝承している。

直政を筆頭に、直光・直春さらに直連・直時が上手である。

柳川家本家は代々江戸のお玉が池に住し、門下達もそれぞれその周辺に居を構えていた。

門下はそれぞれ、直政門人には「直」直光には「光」直春は「春」直連は「連」の一文字を免許され、工銘とする。

直光門人の菊岡光行・直春門人の河野春明、孫弟子にあたる石黒政常・田中清寿などが特に有名。

□初代直政

元禄五年(1692)に政次の子として生まれる。父の縁故で横谷宗珉に師事する。また、短期間ながら吉岡因幡家にも学んだとされる。横谷家の隆盛は、柳川直政の存在に負うところが少なくなく、技量・門下の指導等傑出したものがあったようだ。

晩年は剃髪入道し、宗円と号した。

嫡男に恵まれなかったが、有力な門弟を養成し、直故や直光を後継者として家業を託す。

□二代直光

技量を買われ、直政の養子となり柳川を継ぐ。

享保18年(1733)に奥州宇多郡相馬中村で藩の抱かえ工の白銀師の子として生まれる。はじめ、父について見習いをしていたが、18の頃江戸へ出て、柳川直政へ入門を許された。

のちに後継者として二代目となり、直政の孫である直春が8才の頃祖父直政と死別したため、その後の育成に努力し、菊岡光行、娘婿にあたる直時らの有能な子弟の育成に尽力した。

柳川派発展の基礎を築いた人物として評価が高い。

晩年は直春の成長を待って家督を相続させ、自身は師の直政同様剃髪入道し、宗固と号す。

□三代直春

二歳で父直故と死別し、八歳で祖父直政とも死別した直春は、直光の指導を得て修業成長し、二代目直光隠居に伴い家督を相続する。

技量が優れていた他に、また直春も門下指導に長け、実子の直連や河野春光やその他刀装具彫金の優れた人材を世に輩出し、柳川家の繁栄を誇るに至る。

□四代直連

直春の実子。

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